過去の標語

 =仏を真似(まね)る=

 お彼岸は、私たちの迷いおさめ、善(よ)き心と行いを積み重ね、そしてできるならば、その迷いに対して答えをだし悟ることを勧(つと)める期間です。

 私たちが生活していくうえで、常にであうであろう悟りと迷い。この悟りと迷いの日々の中、人々を救いたいというお釈迦さまのお気持ちにどれだけ近づき、またどれだけ同じような事(行い)ができるのでしょうか…。

皆さんがよくごテレビや映画などでご覧になる時代劇物の中で有名な作の一つに「水戸黄門」があります。この作中にでてくる主人公・水戸のご老公でよく知られている徳川光圀(みつくに)公は、全国巡行の折(おり)に、親を背負って行列を見せた孝行息子に褒美(ほうび)を取らせました。次の時、それを真似した悪童(あくどう)にも褒美を与えました。

納得(なっとく)のいかない家臣(かしん)に一言。

 「悪行を真似れば悪人となり、善行を真似するなら善人となろう。善きことを真似するのは、大いにけっこう」と、家臣を諭(さと)されたそうです。

また、当山に本堂正面に勧請されている合掌姿のお釈迦さま、手をあわせるお釈迦さまのお姿は、すべての生きている物、人やものを敬う尊いお姿です。そして、このお姿こそが私たちの生き方のお手本となりえるものであります。

 人間の善き心と善き行いは、周りの人を幸せに導きます。まずは手と手をあわせる仏さまのお姿の真似をしてみることから始めてみようではありませんか。あなたが合掌しているそのお姿こそが、仏のお姿であり、また仏さまに愛され、智慧と勇気をいただき、幸せになり、そしてあなたの周るにいる方々(家族や友人、同僚など)も幸せになり、またその周りにいる人々も幸せになっていく。この輪が仏の輪(和)であり、仏さまの大切な教えの一つであり、仏さまに近づくことができる方法の一つでもあるのです。

実践あるのみです。



 =親子の繋(つな)がり=

 もし、あなたがすでにご両親を亡くされていたとします。亡き両親の幸せってなんなのかを考えてみてください。

供養してあげること?

たくさん思い出してあげること?

ずっと忘れずにいること?

 どれも間違っていません。でもほんの少し見方を変えてみましょう。生きていた時の両親の目線で。あなたが笑っていた時や嬉しかった時、きっと同じ気持ちだったのではないでしょうか。

「我(わ)が心身(しんしん)は親がのこした体」。

つまりあなた自身なのです。親子の心身の繋がりは、たとえ時や場所が違っても決して切れるものではありません。

また、両親がのこしてくれたあなたのからだは、次の世代である子供や孫、そしてその次の代まで子孫繁栄として代々繋がりのこっていくのです。

そして、あなたの心がけが、また子供や孫、子孫の心がけがそのまま亡き両親、さらにはその上の祖父母(父方や母方)、その上の祖祖父母以上の方たちにまで伝わるのです。

 今月はお盆の月です。ご両親が、またその上の方々、ご先祖さまが喜ばれますよう、自身の行いや思いを問い直してみる時なのかもしれません。そして、その思いをもって、お墓参り、さらにはお施餓鬼法要にご先祖さまそれぞれのお名前をもってお塔婆をたてご供養として気持ちを伝えてみましょう。そうすれば、この先必ずご守護が得られることだと思います。

 



 

=恩を返す=

現在の世の中は複雑多様化し、さらには世の中の変化もいちじるしく速くなっている、早変わりしているように思えます。しかし、いかに世の中が幾(いく)多彩(たさい)に変わろうとも、私たちには変わらない思いや変えられない道理があります。それは感謝の心です。

それを伝える言葉「ありがとう」は、有(あ)り得(え)ることが難(むずか)しいという言葉です。

人との出会いや物・物事との巡りあい、そして生まれ出(いで)ること。すべてが何千、何万、何億分の1という確率で、そこに存在するのですから、有ることが難しい…。だから有り難いのです。

今ある自分の存在もまた有ることが難しいといえます。そして、そんな自分を世に出してくれた親を大切にしましょう。気付いているならばそれでよいのですが、いま気付かなくても必ずそれに感謝する時がきます。その時、その広さ、深さ、重みを身に刻み感じることでしょう。

昨今、子供が欲しくても、それぞれの家庭の事情(金銭や健康=個々に抱えるストレスや種の問題等)により授からないケースが多々見受けられます。さらには里親制度などもありますが、お互いの相性等もあり成立しないこともあるのです。

今、自分の手足に触れてみましょう。鏡の前の自分を見ましょう。それは全部親からの贈り物です。

有り難い自分を大切にしましょう。

 

あなたがあなた自身を大切にすれば、亡き親であれ、健在の親であれ、それが一番の恩返しとなるはずですから。

 



=失敗は貴重な宝もの=

誰でも仕事やスポーツ、対人関係、生活など、いろいろとしくじることは多々あると思います。

「ごめんなさい」「申し訳ありません」と謝ってすむくらいなものなら、その場で解決はできるでしょう。

しかし、私たちが成長していく長い時間・長い人生においては、簡単にことは済まず、一件落着にはならず、落ち込んでしまうこともあります。

そんな時、あなたはどうしますか。

「思い出したくもない」、「さっさと忘れてすっきりしたい」と。

それも悪くはないでしょう。ただそれでは本当(真(まこと))の解決にはなりません。現実から逃避しても、一時しのぎにしかなりません。

それよりも、この事(しくじり談・失敗談等)を貴重な体験と見てはどうでしょうか?しくじり・失敗の原因を探り、そして活(い)かすことをしてみませんか?とても大事なことです。原因が分かれば失敗を繰り返さずにすむ方法や政策・対策が見つかることでしょう。

また、自分一人で抱(かか)え込まず、一つの考え方として、時には同僚や先輩、あるいは頼れる人に相談することも必要なことです。そうすれば将来の自分、そして今後の人生をより良いものにできるはずです。

しくじりや失敗は、今在(あ)る自分の姿を見つめるチャンスだと思ってください。そうすれば今の自分より、はるかに上の存在、つまり成長することができるのです。

今月で今年も半分終わります。昨年より今年、今年の前半より今年の後半の自分という思いをもって成長していきましょう。



=やる気にスイッチ・オン=

会社や家族、隣人(りんじん)や同級など人と人との交友関係はさまざまなつながりがあります。そして、その中においての人の役割(現代の社会や情勢)もさまざまあり、それに伴(ともな)う行動も、またさまざまな形があるでしょう。人は、はたまた人を突(つ)き動かす原動力とは何か、それは感動であり感激(感謝)ではないでしょうか。

以前、ベストセラーになった小説の一節です。

「目あれど美(び)を知らず、耳あれど楽(らく)を聴(き)かず、心あれども真(まこと)を解(げ)せず、感激せざれば燃えもせず」(黒柳徹子さんの自伝小説『窓ぎわのトットちゃん』より抜粋)

法華経には「随喜(ずいき)(人の善事をみて喜び・感動を得ること。また、心からありがたいと感じること)」という言葉が随所にでてきます。仏さまの教えを聞いた衆生(しゅじょう)(いろんな国の人々)が感激し、修行の志(こころざし)を懐(なず)く(馴れて親しむこと)瞬間です。その時の心持ちは、100㌫仏さまに心を開き、素直に随順する気持ちになり、高ぶる状態になっていくのです。

自分自身、目標を立てたなら、それに向かって真っすぐ素直に飛び込みましょう。

そして、目標をたてたなら、その目標を達成するために細かい目的を決めましょう。この目的を一つひとつ達成していくことに自分自身がたてた目標が近づき、最後に達成できるのです。

それがやる気に「スイッチ・オン」する秘訣なのです。

 

令和2年も残すところ、後1カ月となりました。今年たてた目標・目的は達成できましたでしょうか?できていなければ来年、できていれば新しい目標を立ててみてはいかがでしょう。人生、やる気がでてきます。

 



=夫婦円満の秘訣(ひけつ)=

こんな句があります。夫が「お前みたいなおたふくババを、俺でありゃこそ置いてやる」というと、妻はすかさず「私なりゃこそ辛抱もするが、誰がみるぞや痩(や)せ所帯(しょたい)」。

よくお説教で引かれる道歌(どうか)です。しかし、この句はこう続きます。

「外で俺が働けるのも、家を貴女(あなた)が守りゃこそ。私みたいなふつつか者を、貴方なりゃこそ大切に。こそと威張ってこちらにつけりゃ、何とこしゃくと喧嘩ごし。こそと崇めて向こうにつけりゃ、ニッコリ笑ってあなたこそ。喧嘩するのも仲良くするも、こその付けどこただ一つ」

今月22日は、一般にいい夫婦(11(いい)月22(ふうふ)日)の日とされています。語呂あわせではありますが、大切なことではないでしょうか。

子や孫たちに、何か大切なこと(教養や常識的な事・家の仏事や信仰)を伝える役目を担(にな)っているのが夫婦です。なかなか親が教えられないことや大切なことは祖父母夫婦が教え伝えてくれます。現代では、離婚や死別などで一人で子供を育てている方もおられます。子供を育てていくうえで、仕事と子育ての両立は難しいものであります。それでも祖父母夫婦がいらっしゃれば親に代わっていろいろと伝えてくれるはずです。

家庭の事情はそれぞれありますが、しっかりと強い意志で子供を育てることを心がけている方は、何かしらの不思議な力(縁)で守られており、その時その時の場面での智慧を授かったり、また人との縁をつないでくれたりということがあります。

 

いい夫婦(11(いい)月22(ふうふ)日)の日、共に見つめ直してみてはいかがでしょうか。

 



=神鏡(しんきょう)=

自分自身のことです。自身が鏡の前に立ったとします。すると、あなたの顔が鏡に映っていますよね。でも不思議に思うことはありませんか?

身体の一部である顔は、自身の一番身近にありながら、鏡を通して見ないと見ることができません。

それと同じことのように、私たちの生き様自体も、自分では見えているようではあるのですが、実は見えていないのです。

しかし、私たちの姿がありのままに見えている方がおられます。それは仏さま(諸天善神さま)です。そして、その仏さまの目を「神鏡(しんきょう)」というのです。

私たちは、生活していくうえで仕事に励み、交友関係を持ち、家庭を築き、それを子や孫という後世(こうせ)に繋(つな)いでいかなければなりません。もし後世に繋ぐことができず絶えてしまったら、その家系は無くなり途絶え、更(さら)には地球全体、人類存亡にも関わってくることにもなりかねません。仏さまが神鏡(神の目)を通して私たちを見守っていただいているということは、「絶える」ということを無くし、私たちをより良い方向(生活や仕事、交友関係等)へと行くように導くためなのです。そのために、知恵(思考)や勇気(行動)を与えてくださるのです。普段は何も思いつくことはないが、何気なく突然物事の考えが頭に浮かんできたり、また周囲の人、更に自身はその人を知らなくても周りから巡り巡ってその人が助けていただけたりと、そんなことが、今思い返せば少なからずあったと思います。それが神鏡を通して私たちを見ているということなのです。

では、どうすればより強く仏さまに見ていただけるのでしょうか?それは素直な心で一心にお寺の本堂、家の仏壇、神棚の前で仏さまに手をあわせることです。仏さまだけではありません。ご先祖さまも同じことです。私たちが見ているということは、相手からも見られているということ、この一点に尽きるのです。

 

人びとの心の鏡になれるよう更なる精進・努力をしていき、仏さまやご先祖さまに褒められたいものです。

 



=「孝(こう)」は潤滑油(じゅんかつゆ)=

「父」の字の成(な)り立ちは、一説には手斧(ておの)を持って大地を切り開く姿を表現しており、「母」という字は、その大地で子を育(はぐく)む乳房(ちぶさ )を表しているといわれています(諸説ありますが)。

また一方では、「子」という字は、大地から少し頭を出し、どんどん頭髪(とうはつ)が伸びる様子を表しているともいわれています。

しかし、昨今(さっこん)の世相(せそう )を見るとその字に込められた思いが、だんだん忘れられているように思えてなりません。

その原因の1つには、親ならこうしてくれるはず、子ならこうあるべきとお互いがお互いを勝手に作り上げた理想像、理想の姿を押しつけ合っているためではないでしょうか。

この関係の潤滑油には「孝」があるでしょう。「孝」の成り立ちは成長の極みを表した「老」から生まれたといわれています。

「孝」とは、子の親に対する道徳、孝行であり、親を敬愛することを基本とするという意味合いをもちます。ですから親はこういうもの、子はこういうものというように、勝手に作り上げた理想像ではなく人類が誕生してからこの方、自然に成り立ってきた姿なのです。

しかし、昨今は報道にもあるように親子の関係で殺傷したり、他人のふりをしたりと「孝」が薄れ無くなってきているように思われてなりません。

不孝は不幸の始まり。現在、新型コロナや自然現象による物価高や景気の落ち込みなど、多々悪いことが重なってはいますが、先人の思いを振り返り、家族幸せに暮らしていきたいものです。

 

また、日蓮大聖人さまの言われている「不孝」とは、人倫の親子関係に留まらず、諸天善神さま(本仏釈尊や家や会社を守られているご守護神、一個人を守っておられる守護神)の慈悲に気づかずに背くこと。それが最も重い罪(不幸=不孝)になるということです。

 



=共栄=

日蓮宗では、仏壇の過去帳の冒頭に次の言葉を記すことがあります。

「先祖は樹木の根(ね)なり。子孫はその枝葉(えだは)なり。根を培(つちか)い養(やしな)わずして枝

葉栄(さか)える理(ことわり)なく、花咲き実(み)生(しょう)ずるためしなし。この過去帳は先祖代々

の徳(とく)を報じ子孫永久の教えに備(そな)う」。

先祖と子孫の関係を木に例えるならば、正(まさ)にこの言葉の通りでしょう。根はご先祖さまであり、幹は生存する私たちであり、葉や花・実は子や孫といった子孫にあたります。さらにここから学ぶことは、枝・葉や花から取り込んだ養分も根に蓄(たくわ)えられ、さらに樹木全体が大きく成長するということです。

私たちが、親を思い敬い(=報恩感謝すること。私たちの世界を、また自分たちを守護してくださっている諸天さまやご先祖さまに供養や回向をすること。これを徳を積(つ)むという、または功徳を積むという)、ご先祖さまを思い敬い、さらにその思いや敬いを子孫へと伝えることの大事、すなわち先祖子孫一体となって共栄(きょうえい)(徳を積む・功徳を積む)することが大切なのです。

上の遺文は『報恩鈔』の一節です。この文章の中に出てくる真味(しんみ)とは、功徳のことです。日蓮大聖人さまの出家は、父母・師匠への報恩も大きな目的でした。それは法華経信仰へと導くことだったのです。しかしその思いは、遂に師匠(真言宗の僧侶)には理解されず、師弟の確執は生涯解消されませんでした。こんな葛藤(かっとう)を抱えつつも、ひるむことなく法華経弘通(ぐづう)に邁進(まいしん )された大聖人さまのお姿こそが、亡き師に捧げる真味となる報恩行だったのです。

 どうぞ皆さまも、諸天さまやご先祖さま、更には子孫に恥じぬ、胸を張れる悔いの残らない生き方、生活をしてください。

 

 それならば、諸天さまやご先祖さま、子孫もお喜びになり、繁栄へと向かうことでしょう。

 



=いのちの実感=

 私たちは、いのちが尊く大切なことは、百も承知しています。しかしながら、そのことが心にドスンと落ち実感として響いているのでしょうか?

 理解(想像と理想)と実感(現実)は異なります。私たちが実感するのは、身近で命の危険に直面した時ではないでしょうか。

 ここ数年、自然災害や疫病など多方面にわたって各地で災いが起こっています。昨日まで何事もなく平穏無事で暮らしていた家が、今日には台風で飛ばされたり電柱が倒れてきたり、更には土石流で流され埋もれたりと、跡形もなく何も無くなってしまう、そんなことが身近において多々起きているのです。「明日は我が身」とはよく言ったものです。

「私たちは盤石の大地に立っている」と思うのは錯覚と思ってください。薄氷の上に存在すると知った時、私たちの生命、また動植物の生命、それは何ものにも代え難い財(たから)と気付くことでしょう。

 上記の御文章は、日蓮大聖人さまが、ある檀越から白米が送られたことに対してのお礼状です。そして、この御書の末尾に「凡夫(ぼんぷ)なれば寒(さむさ)も忍びたく熱をもふせぎがたし。食ともし」と述べておられます。

 大聖人さまが身延に入って3年目。雪深く人が訪れることも少なく、ご自身のみならず弟子などを養う食物にも事欠くありさま。そこへ届けられた白米や芋のご供養の品々。これによっていのちを繋ぐことができたことを感謝されています。

 大聖人さまは、数多のご法難に加え身延入山後も常に死との隣合わせだったからこそ、いのちの尊さを常に実感されていたのでしょう。

 

 命とは、尊きもの。私たちが生きるための根源であります。世間では、まだまだ新型コロナウィルスが蔓延しています。どうか、自身の身体は自身で大切に管理してください。生きる術(すべ)(智慧と行動)、生かされる法(知恩報恩)はたくさんあります。それを見つけてください。

 



=親の心子知らず=

「老いて後 思い知るこそ悲しけれ この世にあらぬ親の恵みに」

 親御(おやご)さんを亡くされた方、この句を読まれてぐっとくるものはありませんでしょうか? 

両親が健在な時は「頑固おやじ」「うるさいお袋」と、ついつい愚痴(ぐち)をいっていることがありませんでしたか? 

それが、私たちも年々を年齢を重ねてくると、厄介(やっかい)と思っていたその両親から受けた愛情、存在の重さ、大きさに気づいてくるのではないでしょうか。

お釈迦さま、日蓮聖人さまですら「未(いま)だ父母への孝養(こうよう)足(た)らず」と懺悔(ざんげ)しておられます。ましていわんや私たちにおいては。

このお言葉をよくよく肝に銘ずべし!

『刑部左衞門尉女房御返事』の上文は、日蓮大聖人さまが父母の恩を語られたご文章で「教主釈尊が父母孝養のために説かれたのが法華経である。日蓮も母上にかけた苦労を悔い、その償いと報恩は法華経による供養より他になし」と説かれており、いかに親の愛情、存在が私たちの成長に大きかったかを述べられています。                

 「親孝行したいときには、すでに親はおらず」という言葉がありますように、両親が健在な時ほどありがたみを判りたいものです。何故ならば、不平・不満・愚痴の思いは、知らず知らずのうちに子から孫へ、孫からその孫へと代々引き継がれていきます。どうせ引き継がれるなら、良い思いを代々引き継いでいってもらいたいものです。

 

 それが、代々幸福が続く秘訣ではないでしょうか。

 



=信仰の寸心(すんしん)を改(あら)めよ=

「疫(えき)れい、遍(あまね)く天下に満(み)ち広く地上にはびこる。死を招くの輩(やから)、既(すで )に大半に超え……」

これは、日蓮大聖人さまの代表著述『立正安(りっしょうあん)国論(こくろん)』冒頭のお言葉です。まさに800年前の様子が、今現在の私たちの眼前(めのまえ)に起きているのです。昨年末から全世界に流行している新型ウィルスコロナがその一つであります。感染者数は、世界規模で数万人を超え、死者の数も日々増加傾向にあります。終息の見通しはまだ遠く、薬やワクチンなども、いまだ検証状態であり、検査の数も限られ世界人口の人たち全員がまだ受けられていません。

立ち止まってこのポスターを読んでくださっているそこのあなた。あなたは多少なりとも仏教に宗教に、更(さら)には日蓮大聖人さまに関心をお持ちの方ではないでしょうか。ならばこそ、あなたにお伝えしたいのです。これは、文字や言葉ではなく、日蓮大聖人さまが生きた時代に起こったこと、そして自らが体験なされたことを、後世の私たちに伝え送られた言葉、肉声なのであります。

この惨状の原因を「鬼神(きじん)乱るるが故に万民(ばんみん)乱る」と、大聖人さまは警告されています。鬼神(きじん)とは、私たち人間が生み出す業(ごう)(恨つらみ、えせみ、欲、怒り、嘘やだまし=虚偽(きょぎ)、犯罪など)なのです。医学科学実証主義の今の時代に笑止千万(しょうしせんばん)などと思われる方もおられるでしょう。

しかし、そもそもその人の思いがおごりや思いあがりなどが原因の一つだといわれています。

 

今一度、謙虚(けんきょ)に素直に大聖人さまのお声に耳を傾けてください。そして「南無妙法蓮華経」とお唱えしてください。心を広く安穏に穏やかな心(魂)を持つこと、手を差し伸べ助けあうこと、それが世界(四表)に、日本に、そしてあなたの家族、あなた自身に、安穏(あんのん)を取り戻す手立てなのです。

 



=闇を切り裂(さ)く大灯明(だいとうみょう)=

「無明(むみょう)の闇」という言葉があります。

これは、真理(正しい教えや智慧、悟り=現実の世情をよくする方法)を照らす明かりがまったくなく、真っ暗闇ということです。まさに迷いの根本(こんぽん)(原因)です。

私たちは、その中を手探(てさぐ)りでさまよい歩いています。そして自分の価値観(自分の世界・心での思い込み)で、「善だ悪だ」と決めつけて生きているのです。その事が、ますます迷いを増長する結果となっているとも気づかずにです。

ならば私たちになくてはならないのものは、闇を切り裂く灯明(とうみょう)(正しい教え・智慧)なのです。そして、その明かりの元となるのが、仏さまの教え(智慧)なのです。

本仏釈尊(私たちを久遠(遠い昔)から見守ってくださっているお釈迦さま)の前にて素直になること、素直な心・気持ちで手を合わせて、お題目を唱えること、瞑想することです。これこそが大灯明(正しい教え・智慧=物事を解決に導く方法)を手にできうる唯一の方法といえるのでhないでしょうか。

人間が抱える貪(とん)(貪欲(とんよく )⇒貪(むさぼ)りとも言い、欲しいものなどに対して、執着する心)・瞋(じん)(瞋恚(しんい )⇒怒ること、腹を立てること)・痴(ち)(愚痴(ぐち)=愚癡⇒真理を知らず、物事の理非の区別がつかないこと)の三毒(さんどく )の増長(慢心(まんしん))によって寿命が短くなっていく。更には、様々な教えの広がりがかえって国を亡びさせようとしていると、日蓮大聖人には鎌倉時代に警告されています。鎌倉時代という昔の世界でもあっても、現代においても、物事を解決に導く正しい教えや智慧がなければ人も家庭も会社も更には世界さえも変わる(変える)ことはできないでしょう。

 

どうぞ、お寺にお参りしていただいて、本仏釈尊の正しい教えや智慧を授かって、物事がより良き方向に向かいますよう精進してください。

 



=病も仏の慈悲(じひ)心(ごころ)=

「苦しい時の神頼み」とよくいいます。人は、それほど強い生き物ではありません。日頃手をあわさない人でも、病気になった時や大きな困難に遭遇(そうぐう)した時、神仏にすがりたくなり手をあわたくなります。これは自然の情(じょう)ともいえるのではないでしょうか。

人(じん)智(ち)を超(こ)えた大いなる存在(大宇宙(自然界)の力=寿量ご本仏=神さま・仏さま)に頭を垂(た)れて祈りを捧げます。ここに信仰との出会いがあるのではないでしょうか。

そう考えるならば、苦しみも神仏の慈悲(人の体や心を成長させていただける力・心)の現(あらわ)れといえるのではないでしょうか。

ただ大切なのは「喉元(のどもと)過ぎれば熱さを忘れる」ではありませんが、良くなってから神仏にすがり、助けていただいた(教えていただいた)ことを忘れてしまい、何事もなかったように過ごしていく、つまりは知恩報恩(恩を知って恩に報いる=智慧を恩を教えていただいてその恩に感謝する)を忘れて神仏を蔑(ないがし)ろにしてしまうことです。さらには、法華経に『変化の人を使わせて』とありますように、いろんな人に助けてもらいながら、その助けていただいた恩を忘れ、蔑(ないがし)ろにしてしまうことです。

重々用(じゅうじゅうよう)心(じん)しなければならない私たちの性(さが)ではないでしょうか。

 

「知恩報恩」人の心にとって大切なことです。

 



=求道=

茶道、華道、書道、柔道、剣道、弓道など。日本古来の伝統文化やスポーツなどには「道」という文字が付くものが多くあります。

そしてこれらに共通する多くは、その道の奥義を極めようとする求道心が伴っているということではないでしょうか。

その道を求め極めようとするその鍛錬の中で、自(おの)ずと技も磨かれ向上していき、さらに心も強く磨(みが)かれていくのです。

ところで、この奥義に達(たっ)するためには、自(みずか)らが身心もろともにその道の世界に飛び込み、一体化(技術の上達と道をきわめようとする向上心)を目指さなければならないことでしょう。

これすなわち仏道で説く「信(しん)」に通じるといえるのではないでしょうか。「道(みち)」は「信(しん)」によって達(たっ)するのです。

「信」とは「信仰」、その道を信じて進むこと、また極めることとをいいます。本当に自分がしたい、させてもらいたいと思うことができ、それ(道)に向かって進む(邁進)する事こそ信仰、すなわち求道なのです。

上文の『法華(ほっけ)題目鈔(だいもくしょう)』は、表題が示す通り法華経の題目である南無妙法蓮華経に具わる功徳(根本)、そしてそのお題目を唱える人の功徳(信=信心、信仰)によっておのずと道が開けると説かれています。

そして、これには疑うことなく、素直な心・一途な心(行い)が大事であり、「正直」と「信心」が備わってこそ真の道(教え=奥義等)が目の前に現れるのです。

 

9月はお彼岸です。年の初めにたてた目標や計画を、ちゃんとできているか、行っているか今一度振り返ってみてはいかがでしょう。できていなければ、今からでも初めて見てください。自ずと道は明るく開けてきます。

 



=プラス思考=

昔、ある村に「三年峠」と呼ばれ恐れられた峠がありました。そして、その峠で転ぶと3年しか生きられないというのです。そこで、みんなは注意しながらその峠を歩いていました。

ところがある日、男がその峠で転んでしまったのです。男は「俺はもう3年しか生きることができない」といい、嘆(なげ)き悲しみました。

しかし、そこへ別の男が現れ「もう一度峠へ行って、今度は10回でも20回でも転べばいい」というのです。「逆に考えれば1回転べば3年は確実に生きられるということ。それなら転べば転ぶほど、その分長生きることができるぞ」と。

物事は受け取り方次第です。人生において、ピンチ(悪い出来事・行い=行動)の裏には必ずといっていいほど同じくらいのチャンス(善(よ)い出来事・行い=行動)が用意されているのです。

目先に起こった悪い出来事ばかり考えていると、次に用意されているであろう善い行いに気づかないものです。そればかりか、悪い出来事が何故起こったのか、そればかり考えてしまい、その事から思考が離れず、頭の中で「なぜ起こってしまったのか」とそればかり考えてしまい、負(マイナス)の思考ばかりがグルグルとめぐり、悪循環にとらわれてしまいます。そうなれば、頭(思考)や心は先に進むことができず、さらに迷いに迷って、今まで以上に悪い出来事が起こってしまうようになります。

これでは、いつまでたっても善い事は起こらないでしょう。そうならないように、少しだけ考え方や目先や見方を変えてみることが大事なのです。これが、先に話した「物事は受け取り方次第」ということなのです。

令和の時代になり、さらに世の中(現世)は変わってくることでしょう。それも、過去世よりもかなり早い時間(スピード)で変わってくるのではないでしょうか。今の時代において生活していく中で、物事は善い方向へと考えていくことが、大切になってくるのではないでしょうか。



=師=

物事を学ぶうえで、師匠(ししょう)は絶対になくてはならない存在です。師(現在の先生、時には両親や祖父母など)についてこそ、初めて教えを受け成長へと導かれるのです。これはどの分野においてもいえることではないでしょうか。

一方、「無師(むし)独(どく)悟(ご)」といってまったく師に就(つ)かず、自分で道を極めたという人も中にはいるかも知れません。

しかし、その人にしても最初から独学ではなかったことでしょう。必ず誰か導き手がいたはずです。

成長に決して欠かせない師(先生)との出会い。今一度その師への思いを巡(めぐ)らせたい、報恩感謝したいものです。

上のご遺文は、駿河国富士郡西山郷の地頭で熱心な信徒だった大内三郎安清氏への手紙です。

ここでの「善(ぜん)知識(ちしき)」とは私たち衆生を成仏(死して仏になることではなく、生きているうちに仏のようになる、生きていくうえでの智慧と勇気を授かること=法華経の教えである)に導く師という意味です。

冒頭で、何事においても良き導き手が重要なのです。また、仏教史上、当初は悪人だった阿闍世王も、釈尊に導かれて成仏できた故事を引かれています。

しかし、一方でその善知識に会うことの難しさも述べられています。

 

信仰は良き手本、良き導き手が最重要だということです。日頃から、その出来事ごとによき師(先生)に出会えるように精進・努力をすることです。

 



=失敗は成功の母=

道でつまずいて転んだ時。「痛い!」と。思わずでこぼこした道を恨んでしまいます。しかし立ち上がる時、その道に「どっこいしょ」と手をついて立ち上がっていませんか。そして「よく見てもっと気を付けて歩いていこう」と、そう自分に言い聞かせてはいないでしょうか。

私たちは、道に傷つけられながらでも、道に教えられているのだと思いませんか。また、その通りだときずかれる方もおられるでしょう。

生き方においても同様です。「1回の成功は99回の失敗の産物」というような言葉があります。誰でも失敗をしたくない、避けたいと思うのは当たり前のことです。しかし、失敗した事から多くの事柄(ことがら)を学び、人は成長していくものです。

このお言葉は、日蓮大聖人さまが檀越である大田乗明入道の病気見舞としてしたためられたお手紙の一節です。

病気になることは嘆(なげ)きでもあるが悦(よろこ)びでもあると述べられています。

悦びとは、病気に罹(かか)る原因を探った時、今までの自分自身のありようを振り返る大きなチャンスであると考えます。

また、まだ病気には至っていないが、どこか体の調子が悪いと思われれば、病院に行き医者に診(み)てもらうことが大切です。診断の結果、何事もなければ良いのですが、何かあっても早期発見・早期治療にて大事には至らず、まだまだ健康でいられます。

何か事があるということは、何かに気を付けなさいとの暗示(仏さま・ご先祖さまのお示し)ではないでしょうか。

 

ここ最近では、咳が止まらなかったり、急な発熱や身体の痛み、怪我や事故などいろいろとありますが、もしこのような事があったり思い当たるようなことがありましたら、今一度自分自身の健康を考えてみてはいかがでしょうか。大難は小難、小難は無難、無難は消滅になると思います。

 

 



根を養(やしな)え=

いよいよ「令和(れいわ)」の時代の始まりです。この元号に込められた思いとは、

「梅が花開きふくよかな香りを放つことができるのも、冬の厳しさ

を経験しているがゆえ。人も厳しき経験を通して他を思い、美しく

心を寄せ合う時代になる」

ことを願って、選定されたといわれています。

ところで、私たちはついつい花に目がいってしまいます。それは、花が綺麗に咲いていて目をうばわれるからです。しかし、その花を咲かせる大本というには何処にあるのでしょう。それは、しっかりと大地にはっている根にあるのです。

しっかりと大地に根がはっていれば、強い風が吹いても雨で水が流れてきても、根幹(こんかん)から幹(みき)を支え栄養を蓄(たくわ)え、そして葉を生(お)い茂(しげ)らせ綺麗な花を咲かせるのです。

こんな言葉があります。

「何も咲かない寒い日は下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く」

私たち人間も同じです。人間としての体と心の礎(いしずえ)(基礎)となることをしっかりと勉強し、社会に貢献(こうけん)し、さらに自分のことだけでなく、他人も思いやる心(気持ち)がないと、人としての成長はありません。

また、家の中においても同じことで、代々受け継いできた大切なこと(信仰=心と教養=智慧と行動)は受け継ぎ、祖父から親へ、親から子へ、子から孫へと代々伝えていかなければならないのではないでしょうか。

日蓮大聖人は、窪尼に夫の信仰を受け継ぎ、その根を深く張ることを教え諭(さと)されています。それは、受け継ぎ根を張ることにより、自分だけでなく子や孫の代において、幸せが訪れるということなのです。

私たちは、根を養う心がけが第一ではないでしょうか。

 

 

 

 

 



=本物の教え=

 「一犬虚(きょ)に吠ゆれば、万犬実(じつ)を伝う」という諺(ことわざ)があります。一人がついた嘘(うそ)も何万人というたくさんのが言えば本当になってしまうものです。

嘘というのは、じつに簡単に広がってしまいますが、真実はなかなか伝わり(広がり)ません。なぜなら、嘘とは人の耳には心地よく、真実は辛口(からくち)(自分自身に当てはまること)が多いからです。

しかし、辛口の中には糧(かて)(成功する方法やその為に行わなければならない行動)になる言葉が多く含まれているものです。

 辛抱(しんぼう)して辛口の言葉に耳を傾けてください。本当は、もしかしたら実はあなたのことを心配して勇気をふるって言ってもらえる言葉ではないでしょうか。

 このご遺文(いぶん)は、法華経は最も信じ難く理解し難いお経。それはこのお経には有限な凡夫の知恵で無限なる仏の心をつかもうとする挑戦が説かれているからです。混迷する現代の指針はすなわちその法華経。しかし、人々はこの挑戦を避けて目先の安易な教えに付こうとします。それが返って過ちとなることに気付いていないと聖人は嘆かれます。

 体が曲がれば当然影も曲がるが如く、教えという本体が曲がれば人々も曲がった方向に導かれて行く。正しい方向に行かず間違った不正の方向に導かれてしまう。

現代を生活していく(生きていく)うえで、気を付けなければならないことです。



=懺悔(ざんげ)は信仰の根本=

 仏教(宗教)の根幹(こんかん)は、自らを顧(かえり)みることです。その中でも自らがしたであろう善(よ)い行い(智慧と行動)はいつまでも覚えているものですが、日々犯しているであろう罪(不平や不満、愚痴(ぐち)、不行(ふぎょう)等)は、果たして私たち自身がどこまで覚えているものでしょうか。それは、知らず知らずのうちに誰かを傷つけているのかもしれません。

 そんな私たちに対し、仏教の教えや法華経の信仰は、懺悔(ざんげ)に始まり懺悔(ざんげ)に終わる教えです。そして、その懺悔(ざんげ)の中には自(みずか)らの罪の重さ(事(知らず知らずのうちに犯したであろう罪)の重大さ)が自覚されてくるのです。

 日蓮大聖人さまの教えの根本は、懺悔(ざんげ)の行(ぎょう)です。懺悔(ざんげ)の唱題(お題目)を積み重ねる中に、お釈迦さまに生かされている自己(じこ)(私たち自身)に気付くのです。その時、懺悔(ざんげ)の唱題は報恩の唱題ともなってくるのです。

 日々の生活の中で、口(言葉)、行い、誘導(陰から授ける智慧=悪智慧)には、自分自身で常日頃から気を付けるように心がけ、また物事をよく考え(意=心)てから、話(口)し、行動(身)しましょう。

 

※皆さまも周知のとおり、罪(悪いこと)と知りながら行動すること、それは犯罪です。

 



=もっと謙虚に=

 このご遺文には、正反対の人物が登場しています。まず仏教徒にとって極悪人とされる提婆(だいば)達(だっ)多(た)(釈尊の従兄。釈尊が悟りを得て仏となったとき、釈尊の力をねたんで阿闍(あじゃ)世(せ)王(おう) と結託して釈尊を亡き者にしようとたくらむが失敗。その罪のゆえに生きながら地獄に堕ちたといわれている)についてです。彼は凄まじい修行を行い、膨大な知識と力を持っていました。しかし、仏さまを信じる心がなかったため、遂には地獄に堕(お)ちてしまったのです。一方、愚者の代表としてあげられた周利槃(すりはん)特(どく)(周利槃特は釈迦の弟子中、もっとも愚かで頭の悪い人だったと伝えられる)は、自分の名前すら覚えられない鈍(どん)根者(こんしゃ)でした。しかしひたすら仏さまを信じる生涯を送り、遂に正しく物事を見る仏の目を持つことができたといわれています。

 法華経の要諦(ようてい)は「信心」が根本であると強く説かれています。             

「実るほど頭を垂れる稲穂かな 垂れるほど人は見上げる藤の花」

人が成長する上で、知識を蓄(たくわ)えることが絶対に必要なのは周知のことですが、しかし一方ではそれは諸刃の剣であり、人を天狗にしてしまう恐れもはらんでいます。その心をコントロールすることが大事であり、その手立てとして私たちを育てていただく大いなる存在に気付き、頭を垂れる(下げる)謙虚さです。

 

 その謙虚さは、この存在を信じ受け入れることから始まるのではないでしょうか。

 



=いのち輝く=

 盂蘭盆(うらぼん)の起源(きげん)は、釈尊の十大弟子の一人・目連(もくれん)尊者(そんじゃ)が餓鬼道に堕(お)ちたお母さんを救おうとした故事(こじ)に由来します。

 この一節は、目連尊者が小乗(小乗仏教=上座部仏教は、自分自身が救済されることを目的に修行していること。また大乗仏教とは、出家者だけではなく、他者をも救済する事を願って修行していること)の教えを捨てて、法華経を信じた功徳によって自身が成仏し、そして同時に両親をはじめご先祖さまや子孫も成仏できることが説かれています。

私たちのいのちは、お父さん・お母さんという両親から贈られてきたものです。そして、その両親にも2人の親がいます。それが10代まで遡(さかのぼ)ると、その前には1024人の親がいるのです。

しかし、その中の1人でも別な人と入れ替わっていたなら、ここに(この世に)私たちは生まれてくることはないでしょう。

そんな不思議なご縁をいただいて生まれ出てきたこの私たちのいのちなのです。                  

 法華経(私たちが幸せになるための教え=法)・お題目(自然界の力)の力で私たちのいのちが輝く。そして私が輝く時、両親が輝く。また私が輝く時、ご先祖さまも輝く。その時、すべてのいのちが輝くのです。

 

 お盆は、そのいのちのリレーに気づく大切な日であり行事なのです。

 



=まず一歩=

口癖(くちぐせ)で結構多く聞かれるのが「どうせ」や「また」などです。皆さまも、よくこの言葉を使ってはいませんか。

「どうせ」とは、やる前から「できない」や「できるわけない」とやってもいないうちから、マイナスの結果を想定した諦(あきら)めの言葉としてよく使われています。それは、自らをなんと貶(おとし)めている言葉ではないでしょうか。そうではなくて、己(おのれ)自身を信じてまず第一歩を踏みだしてみてください。そうすれば、今見ている、考えていることとは違った情景(結果)が見えてくるはずです。

一歩一歩と進むうちに、当初予想もしていなかった結果が表れ、さらに本気(真剣)になって物事を進めている自分を発見(気づく)できるでしょう。

「また」という言葉も同じです。「どうせ」や「また」「しかし」「そんなこと言うけれど」も同じ、物事を否定するマイナス言葉です。これらを多々使っているとプラス思考にはなれず、なかなか前に進むための第一歩がでないことでしょう。

どうか、自分自身を信じて第一歩を踏みだしてください。新たな自分自身に気づくはずです。

 

また、「どうせ」には別の使い方もあります。「どうせやるなら!頑張ろう」です。



=いのちの源=

 日蓮大聖人さまの教えを、一言で表すならば「知(ち)恩(おん)報恩(ほうおん)」に尽(つ)きるのではないでしょうか。

 受けた恩の深さを知れば、報(むく)いずにはいられない。その心を大聖人さまは、お釈迦さまのみ教え、法華経から受け取られたのです。

 「親孝行、したい時に親はなし」という言葉がありますように、親の恩に気付くことは、取りも直さず自分自身の命の根源に気づくことであり、生かされている、また育てられているという自分自身の存在の重要さ、さらにはその尊さに目覚(めざ)める(自覚(じかく)する)ことでもあるのです。 

 「知恩報恩」とは、その人(家族や友人、上司、仲間)が表や裏せしていただいた恩(行い、教え)を知って、その恩に報いる(教えていただいた事柄を生かす)ということです。

 

 人は誰しも一人では何も出来ないものです。周囲に人がいるからこそ、物事(すじ道や物事の道理(どうり))を諭(さと)していただけたり、正しい方向に導いてくれるのです。自分自身を育てていただいた人を、どうか大事にしてください。それは供養としても大事なことなのです。

 



=逆境=

 この一節は方人(かたうど)、つまり味方よりもむしろ自分を迫害する強敵(ごうてき)こそが、信仰(自分自身)を育ててくれる恩人であると説かれています。いかなる苦しみにも屈するなということです。

極楽とは「楽の極み」と書くように、そこには悪人もいなければ苦しみもないといわれています。一方、私たちが生きるこの世界を娑婆(しゃば)と呼びます。また忍土(にんど)とも表現されるように、まさに苦しみが充満してしまい、それに堪え忍ぶ世界のことです。だからこそ、苦のない世界を望むのです。

しかし、翻(ひるがえ)って考えてみた時、苦のない所(世界)に自己の成長や進歩があるのでしょうか。

 

 アスリートや成功者たちを見てください。なんの苦も努力もなく、勝利や栄冠・地位・名誉などをつかんではいないはずです。何時(いつ)如何(いか)なる時においても逆境を乗り越えてきたからこそ、あの笑顔が自信が生まれてくるのではないでしょうか。

 



=信仰者のあり方=

 「短気は損気」とよくいわれますが、仕事面や生活面において何か失敗やトラブル、自分の思い通りにならないことがあると、誰もがついつい短気を起こしてしまうのではないでしょうか。

常日頃からの心がけ次第で、短気はなるべく起こさないようにできますが、本当に大切なのは俗に忍耐(にんたい)といわれます。

 しかし、一般に忍耐(にんたい)というとただひたすらに自分を抑えて堪(た)え忍(しの)ぶことのように考え、そしていつしか限界がきてしまうのではないでしょうか。

 一方、法華経では耐え忍ぶことを「忍辱(にんにく)」を説きます。忍辱(にんにく)は、自己の成長、成仏(仏の心=柔和(にゅうわ)の心となる道)の糧として、今現在自分がおかれている状態を受け入れる心持ちです。

 

 自分の心・志向が、プラス思考かマイナス思考かによって、今後の人生に雲泥の差が生れてくるのではないでしょうか。願わくは忍耐も大事ですが、柔らかい穏やかな心(柔和な心)、何事も許せる心、そして人に対してキレる心ではなく、人を育てる仏の心を持つこと、持つようにする努力(精進→信仰)が大切なのです。

 



=地獄も仏も心の内=

 この日蓮大聖人さまの御遺文は、地獄と仏について教え、その両者とも所在は人の心の内にあることを説いておられます。

 現在の世にいて、マスメディア等の報道機関にて、よくいじめ問題(子供や高齢者に至るまで)や、果ては国同士による問題などを目に耳にします。

地獄(悪=いじめや窃盗、中傷等→懺悔文参照)も仏(善=相手に対して思いやりのできる心(慈悲)、自分に意志で考え、決意、行動できる心)は人の心の中に存在しており、この二つがバランスよく存在して、善悪の判別を認識し、社会に適応できる行動をするのではないでしょうか。

自分の心を覗(のぞ)いた時、そこに地獄(悪しき心)が存在していたことに気付くのが信仰の原点ではないでしょうか。しかし、自分の心の中にある悪を認めることは人にとってたやすいことではありません。

 

 それに気付いたならば、日々、仏の前に額(ぬか)ずき己(おのれ)を謙虚(けんきょ)に省(かえり)みることです。その時、初めて仏の大いなる懐(ふところ)に抱(いだ)かれ、生かされていた自分を発見することができるのです。それが信仰の喜びというものかも知れません。



=成功の鍵は一致団結=

 「自分の我がままは当たり前、他人の我がままは許せない。いや、むしろ自分はいつも我慢している」と思いがちなのが私たちの常かも知れません。そんな姿を鏡に映した時、自身はどのように見えるでしょうか。

 自分自身だからこれでいいと思う人もいるかと思ういますが、こんな姿は悲しく見える、または惨(みじ)めとか空(むな)しいとか醜(みにく)いと思う人の方が多いのではないでしょうか。

 こんな捨てがたい「我がまま(我=自身の心や業)」を持った者同士、一息ついて相手を慈(いつく)しむ(拝する=拝む→相手と対等の立場で認めあう、もしくは譲りあう)気持ちで「我=心や魂」を認め合ったなら、調和と発展の「大我」が生まれ、この世界が今まで以上に平和であり、平穏な暮らしができるのではないでしょうか。さらには何か大きな事柄(事業)を起こす原動力となり、万事・物事(機械や法、暮らしや心など)を生みだし、この世の中を支える力となるのではないでしょうか。

 

 今年一年の心構えとしたいものです。



=霊山浄土への導き=

 人生最後を迎える時、最も不安なのは「死後自分はどうなるのか、残されたものはどうなるのか」ということではないでしょうか。

 その時「霊山浄土(死後にたどり着く安穏(=安らぎ)の世界へ来られたなら、その入り口である北東の方角の渡り口で日蓮大聖人さまをお呼びなさい。必ずそこでお待ちしておられ、あなた自身にとって最善なる方向を示していただけるから」と。

 このように明確に行き先が示されたなら、どんなに大きな安らぎが得られることでしょう。ただ信じて懐へ飛び込んで行けばよいのです。

 「死に様は生き様」というように、安心して人生の最後を迎える確信を得ることは、いい生き方につながるのではないでしょうか。死ぬ間際に、「あれをしておけばよかったな。あれはどうしたかな」というような、その生涯の中に後悔(こうかい)の念が起これば、霊山浄土へは行けず、魂だけがこの世にさまようことでしょう。それは本人にとっても残されたものにとっても、非常に悲しく辛いことです。願わくば、生涯に誇りを持ち、後悔をしない人生を送ることが大事ではないでしょうか。

 

 本書は日蓮宗の葬儀の際、引導文の一節によく読まれ、故人に死後の安心を与える名文です。

 



=現世の安穏を得る術 =

 日蓮大聖人さまが説かれる現世が安穏とは決して苦がないことではありません。苦楽は表裏一体不二のものです。こう考えるならば、苦の中にこそ真の喜びを見い出すことが仏さまの教えの大事なところなのです。

 「らく(楽)」という言葉を見てください。「ら」の下には「く」、つまり「苦」が付いているではありませんか。

 日々、生活していく中で、悩みや苦労はつきものです。しかし、その苦悩の中で生きているからこそ、この苦悩を取り除き、より良い生活、より良い毎日が過ごせるように思考(文殊菩薩の智慧)をはたらかせ、また霊断法による指導にもよることで実働(普賢菩薩の勇気と行い)し、素晴らしい人生を送ることができるのです。

 

このお言葉は、私たちへの大聖人さまからの人生にくじけず負けるなという激励のお言葉なのです。

 



=お題目は慈悲の教え=

 乳飲み子を育てる母親は、自分のことは二の次にして、ただただ赤子のことを思って毎日を過ごしています。自分のためだけではなく、世の中のすべての安穏(安らぎ)を祈り、悟り、行うのが「南無妙法蓮華経」のお題目。赤子のために一生懸命になれる母親の姿と重なるものがあります。

 赤ん坊が母親の深い愛情(慈愛)を理解するのは、成長したずっと後のこと。大きく成長して、はじめて分かることなのです。成長した後も、私たちには生活し暮らしていくなかで見逃してしまっている大切なこと(物事や心情・愛情)がたくさんあるのではないでしょうか。

この『諫暁八幡鈔』には、法華経守護を誓約する八幡大菩薩を祀(まつ)る鎌倉鶴岡八幡宮が、炎上した原因が説かれています。それは氏子であった北条氏が、法華経の行者を迫害した故に八幡大菩薩が自ら社殿を焼き、天上へ昇ったというのです。そこで日蓮大聖人さまは、改めて八幡大菩薩に対して法華経の行者を守護すべきであると諫(いさ)め(お礼・お詫び=報恩感謝(知恩報恩))られました。

 

 このご遺文の一節は、仏子(私達)として大事なことであり、この事(慈愛・慈悲・知恩報恩)は忘れてはならないことなのです。

 



=実乗と和平と合掌=

 信仰とは、悟りへの乗物ともいえます。

より確実な乗物として、日蓮大聖人さまは「実乗の一善」と表現されました。そして、そこに「帰せよ」とは、そこを揺るがぬ定点(心構え・意志)とし、それを勇気(行動)と知恵(悟り・学問)として世の中を見つめながら、世界全体の苦しみや被害、心的ストレス(自然災害・戦争・人的災害など)が除かれる(無くなる)ように祈りを捧げ、そして救いたいと誓願(思うこと・念ずること)することです。

 どんなに小さくても、この誓願(祈り・思い)を持ったとき、人は幸せを感じられます。この幸せが世界中に弘まれば、真実の和平が必ず訪れることでしょう。それは、あなた1人の心から「世の中がこうなればよいのにな」と思う(念ずる)ことから始まるのではないでしょうか。

日蓮大聖人さまが書された『立正安国論』において、「正」とは、一に止まると書きます。この書では、一善に帰することを意味しているのです。

 「国」とは、国家だけではなく、人が人として生きている場所であり、自然や文化芸術なども含んでいます。

 

 日蓮大聖人さまは、予想される苦難を恐れることなく、「安国」を祈られたのです。

 



=お盆の心=

 盂蘭盆(お盆)は、お釈迦さまのお弟子さまの一人、目連尊者さまが、死後餓鬼道に堕(お)ちてしまった母親を救う供養の姿・心から始まりました。

 それが日本に伝わり、推古天皇の時代(592〜628)に、宮中の正式な行事として始まり、やがて寺院の法要となり、次第に一般化され、そして現在の供養の姿(形)になったのです。

 供養とは、生きとし生けるもの、また花や物だけではなく、合掌(思いやる心)する心や姿そのものです。供養(亡くなられた方を思いやり、手(心の思い、供養のための品々、読経・写経)を差しのべる姿勢)されて死者は安らかになり、生者(私達自身、家族、親族等)は、穏やかになるのです。これがお盆です。

 死後、餓鬼道に堕ちてしまった母親を救うおうとして、目連尊者さまが供養をされますが、それは餓鬼道から救うのみで、真(まこと)の成仏ではないと、日蓮大聖人さまは示されました。それは、供養する本人である目連尊者さま自身も、成仏しなければならないということです。

 

 つまり、死者と生者が同時に成仏(仏の心・思いやる心)となることが大事なのです。



=日月の光明=

 「赫(かく)」には、聖火で身を清める意味があります。

 「明(めい)」は、窓から月の光が差し込み、暗闇から解放され、物事が明らかになるさまをいいます。どちらも神仏の力を現(あらわ)していることです。

 災害(自然や人的等)や紛争など辛いことがあると、私たちはうつむいて下を見ることが多くなることがあります。

 しかし天を仰げば、そこに分厚い雲があったとしても、その上には必ず太陽の光、いわゆる「日月の光明(こうみょう)」が優しく輝いているのです。その光は全てを包み込み、新たなる力を与え続ける恵みの光となるのです。

またこの事は、供養の大切さとその供養によっていただける功徳にもいえることなのです。供養(先祖供養や塔婆供養塔)を行えば行うほど、身に注ぐ法華経の供養の功徳も多くなります。そして、その果報(結果)は必ず現世に現(あらわ)れてくるのです。

 

 7月・8月はお盆です。どうか供養の心を大事にしてください。



=正しき流れ=

 邪(よこしま)な教えは、正しい教えが現(あらわ)れたときに消える運命(さだめ)です。これを、古来「源(みなもと)竭(つく)れば流れ尽(つ)きる」と表現されてきました。

 また逆に、正しい教えは源(みなもと)まで遡(さかのぼ)ることができるので、尽(つ)きることはないのです。それは、正しい教えを絶(た)やしてはならないということも意味しているのです。

 現代(いま)、さまざまな自然災害(大地震・噴火・降雨による大洪水など)が起こっていますが、どのような災害の時やその苦難の中でも、正しさ(正しいと思える心)を身に宿(やど)していれば、正教という流れは尽きることはないのです。

 

 どうか合掌(正しい心と姿勢(すがた))して、身体と心を正しく持ち、過去から現在、そして未来へとこの世の中が、戦争もなく自然災害に対しても速やかに行動できる平穏(へいおん)(平和)でありますよう、さらに永遠に続きますよう祈り(正しい教え・心・行動・勇気)を捧げましょう。

 



=苦しみと合掌=

 苦しいとき悲しいときなどに、美しい物や姿を見たりふれたりする、心が和(なご)み落ち着きます。

 それは、物や姿勢そのものの美しさに秘められた不思議なオーラ=エネルギーが導いてくれるからです。

 美しさの極みは、物事やすじ道の正しさを信じる心です。その心の現れ(姿)が合掌(感謝の心=お詫びとお礼の心、懺悔と報恩の心)です。人は合掌(感謝)に導かれ、苦しみや悲しみの少ない社会(平和で安穏な社会)を創造していくことができるのです。

 

 そして今(現在)、あなたの合掌こそが、あなた自身を癒やすと同時に、世の中の苦しみや悲しみを減らし、人災や戦災、更には自然災害などの遭遇から生まれてくる心(精神や魂)のストレスや悲しみ、痛みを軽くしていくとともに、現在の社会に生きていく力(知恵と勇気=行動力)とエネルギーを、仏さま、諸天善神さまからいただける(与えてくれる)のです。

 



=天晴地明=

 空が晴れれば、地面が明るくなることは道理です。

 逆に、空が曇れば、地面が暗くなります。

 同じように、人の心が晴れやかであれば社会も明るくなり、人の心が曇(暗)ければ、社会もまた暗雲となりことでしょう。

 私たちは、自分自身のためにも、社会のためにも、晴れやかな心を持つことが大切であり、またその心を持たなければなりません。

 書名が示すように「観心」とは「心を観る」ことであり、「ご本尊(お釈迦さまや諸天善神など)」との関係を示しています。

 まず、私たちの心には、すでに諸天善神さまがおられます。そして、心中の諸天善神さまの存在を知ることが慈悲の世界(人に対する思いやり)に通じとともに、これを信じられれば、法華経の守護神の中に生きること(諸天善神さまのご守護を授かると同時に運気を上げる)になるのです。

 

晴れやかな心は、人としての正しい姿によって導かれ、育ちます。その正しい姿を持って人と向きあい、育てあい、そして社会情勢を明るく晴れやかにしていかなければならないのです。

 



=「妙」の一字=

 「妙」の一字は、全ての人々に美しさや優しさを観ていくことを意味しています。また、「開(かい)」とはこれを開花させるということです。

 「開」の中には、すでに「妙」の一字が含まれていることを示しています。

 日蓮大聖人は、「妙」の一字を「開」と表現され、「開」の一字の中には「蘇生」の意味があると示されました。

 ここ数年、東日本大震災や火山の噴火、テロなど多くの災害による被害が、世界各地で起こっており、私たちの身のまわりにも、少なからず影響が出てきていると思えます。私たちは、この辛く悲しい体験から多くのことを学び、体験してきました。そして時間はかかりますが復興を果たそうと、努力に勤めています。この復興が「開」=「蘇生」なのです。

 

復興には、時間と努力(労力)はかかりますが、合掌(世界の人々と手を取り合う)して「蘇生」を祈り、笑顔という「妙」なる花を開かせてください。

 



=心の姿勢=

 「たぼら(誑)かす」とは、他者を邪な道に誘うことです。そして、その邪気によって、狂わされることを示しています。そして、この狂いは自分の欲によって、さらに増大していきます。

 「たぼら(誑)かされない」ためには、正しい教えによって、心の姿勢(自身の信念を強く持つ)を保つことが大事です。正しい姿勢は心の強さを生みます。そしてそれは美しさえ感じてきます。

 この美しい心を育てる身体の姿勢(思考力・行動力)こそが大切なのです。そして、この姿勢が社会(世界情勢)を安穏(平和)へと導びくのです。

 この事が、現代においての社会情勢(テロ活動や欲に刈られての金銭のトラブル、不平不満・愚痴・陰口等の対人関係、他)を良くしていくための道ではないでしょうか。

 

日蓮大聖人は、親子・子弟(上司と部下等)・夫婦(友人や同僚等)などの人間(対人)関係で互いに、正しい信仰に導き値うようにすれば、争い事や争奪、不平不満等の愚痴などなく必ず救われると説かれています。

 



=いのちに合掌= 

  新しい年を迎えました。新年(信念)とは、過去に思いを馳せ、未来に向かって志を立てる時でもあります。

 ふり返りますと、人間の存在とは奇跡の連続の賜(たまもの)です。両親が出会って生まれ、また、両親も祖父母がいてこそ生まれました。この奇跡を十代遡(さかのぼ)りますと、1024人になります。この中の一人でも欠ければ、現在の私たちの命は誕生しませんでした。今を生きている私たちの命は、奇跡の連続が生み出したものなのです。この尊い「生命(いのち)」に合掌(慈悲で満ちあふれた心)する姿を育てる一年にしていきましょう。

 このご遺文は日蓮大聖人 『祈祷鈔』の一文です。

 

 正しい信仰者への守護の姿について論を述べられています。信仰の善悪による守護の姿の示され、そして守護の元となるのは報恩感謝(お礼とお詫び)の心だと述べられています。さらに、合掌(祈る姿・思う心)して正しい信仰に目覚め、安穏な人生(私たちが幸せに暮らせる世界・世情)をおくり、未来の成仏(幸福=安心・立命して暮らせる世界、未来を支える子どもたち)を祈ることを諭(さと)しているのです。

 



=妙の意味= 

 「功徳」とは、善い結果をめざす精進努力のことです。

 「失敗は成功のもと」ともいわれるように、自身の精進・努力は必ず報われるものです。

 「妙」は、細やかで美しく、優れている様子を表します。さらには自然や人、文物・文化を見て、その心に触れることを意味しており、これによって総ての本質を正しく知り、自分自身の行動に自信と誇りを持つことが大事なのです。

 今年一年の総てのこと(感謝と反省=お礼とお詫び)を「妙」の一字に集約し、新しい年をより良く過ごし事ができるように、また安穏(平和)な社会(世界)が実現するように、さらには私たちの家族が生活が良くなるように、言動(言葉と行い)を大事に、そして祈り(祈願)が目的を成就することになるのです。

 

 また、花が種や実となるように、「妙」の文字には、凡人(衆生=全ての人々)が仏となる不思議な力があると、日蓮大聖人様は信仰の世界を示されました。そして、「妙」とは一切(全て)の功徳を合わせたものだと結ばれています。

 



=「時」の大事= 

 春に美しい花を咲かせ、秋に実をみのらせる植物。春は花を咲かせることに、秋は実をみのらすことに一生懸命になった結果です。目の前の「時」にベストを尽くすことはとても大事なことです。

 同時に、こうも考えられるはずです。春は秋に美味しい実をみのらすために花を咲かせ、秋は来春に美しい花を咲かすために実を結ぶのだと。

 現在の花を咲かせる(縁をつくる)ことと、未来に実を結ぶ(結果が現実になる)ことを一つにした祈りが、大切なのです。

 この事を、自分自身におきかえて考えてみてください。その先に素晴らしい明日(未来)があるはずです。

 『上野殿御返事』

 このご遺文は、南条時光公が身延山の日蓮聖人に白米一駄を届けたことに対するお礼状です。

 山中の生活で食糧も乏しくなり、命が絶えそうになったときに頂いた白米は、尊い品物だとお礼を述べられ、ご供養した南条公には釈尊と法華経の恩恵があると結ばれています。

 



=主・師・親の三徳= 

主・師・親とは、お釈迦さまに備わった三つの徳のことです。

・「主」とは秩序

(物事の正しい順序。正しく、勇気を持って行動すること。 ) 

・「師」とは智慧

(正しく物事を認識し判断する能力。事の道理や筋道をわきまえ、正しく判断する心。)

・「親」とは愛情

(人や物を心から大切に思うあたたかい気持ち。いつくしみの心。)

を意味します。

 お釈迦さまはこの三徳を悟られ、世の中を安穏な社会へと導き、生きとし生けるものへ、この三徳を授けたいと願われました。

 この願いを素直に受け止め、自らもこの三徳を備えたいと祈ることこそ、世界平和・平穏な日常(泰平な世)生活があるのではないでしょうか。

また、災害が起きてもいち早く、手を差し伸べていただけるのではないでしょうか。

 

そして、この姿が合掌なのです。



 

=本当の心= 

この『事理供養御書』というご遺文は、信徒からのお供え物に対しての日蓮大聖人さまからのお礼状です。

 財(宝)のなかで《いのち》こそが、一番であると示されたものです。

日蓮大聖人さまは、「人として正しく生きる」という《志し》を立てることが大切だとされ、私たちがこの教えを信じたとき、生活や営みのすべては仏さまの教えの世界になると示されました。

 月を見て美しく感じ、花を愛でて気持ちがなごむのは、私たちの心がそれらと呼応するからです。すなわち、私たちの心にはすでに月は美しいもの、花は愛らしいものと感じる清らかな心があるからです。

 しかし、私たちは忙しい生活を送るうちに、知らず知らずのうちに和やかさや穏やかさを失い、美しく清らかな心の存在を忘れてしまいがちです。

 そんな時、一呼吸し、間をとり合掌し、ありがたいと感謝の心を思えば、あなたの心の奥にしまわれている月や花を呼び起こし、私たちがもつ本当の心を呼び起こし、取り戻すことができるのです。今月で今年も半分終わります。昨年より今年、今年の前半より今年の後半の自分という思いをもって成長していきましょう。



=仏心=

 私たちの心の中には、貪りや愚痴など嫌な部分もありますが、誰かの役に立ちたいと願う良いところもあります。

それが仏心です。しかし私たちは自分自身のなかに仏心があることを忘れがちです。

 《私》という 漢字を見つめてみましょう。《私》の《禾》から「一(イ)」と「八(ヤ)」のイヤな心を除くと《仏》という漢字が残ります。

つまり《私》の字には《仏》が内在しているのです。この隠れた仏心を呼び起こすのが合掌です。

  私たちは、社会の一員として、どのような苦難に遭おうとも「心は仏心と同じ」と信じる覚悟が大事なのです。